「きっかけ」を与えられる側から与える側に【前編】~中学卒業とともに海外留学を経験し、25歳で起業するまで~
代表取締役 鈴木 陽平(すずき ようへい)様
教育機関の学生募集に特化したマーケティング・広報支援システム「SchooLynk Contact」。
2020年4月のリリースから僅か3ヵ月で200校以上の大学・専門学校に導入されるなど、コロナ禍で生まれたニーズにいち早く対応し、急成長を遂げている教育業界のバーティカルSaaSサービスです。
今回は「SchooLynk Contact」の運営会社である株式会社Doorkelの創業者であり、代表取締役の鈴木陽平さんにお話を伺いました。前編では高校から海外で過ごしてきたご経歴、日本に戻って就職・起業をした背景、そして後編では仕事をする上で大切にしていることや、Doorkelを通して目指していきたい社会についてお話しいただきました。
周りの環境が「きっかけ」をたくさん作ってくれた
―本日はよろしくお願いします。鈴木さんは高校、大学と留学をご経験されているなど、かなりユニークなご経歴をお持ちですね
15歳から25歳で起業をするまで、多くの時間を海外で過ごしてきましたが、出身は岐阜県の関市という田舎で、幼少期は野球をしたり山で秘密基地を作ったりと、もっぱら外で遊ぶ普通の子どもでした。
留学のきっかけになったのは、小学校3年生の時に家族旅行でラスベガスに行った経験です。到着するや、父はカジノへ、母親と姉と妹は買い物へ行ってしまい、「18時のディナーショーで集合」ということだけが決められて、お小遣いの50ドルを貰って自由行動になりました。
外国の街を一人で行動するにはまだ幼かったのでホテル内を探検していたのですが、地下のラウンジにダーツやビリヤードができるところがあって、遊んでいる外国人観光客をぼーっと眺めていたんです。そうしているとビリヤードをしていた若い二人組の男性が声をかけてくれ、ビリヤードをやったことも無ければ、英語も喋れない、10歳くらい歳も離れた自分と一緒に遊んでくれ、「アメリカってすごい!」と感動を覚えました。
ただ、それはあくまできっかけで、その時はまだ「海外は広い、自分も英語を話せるようになったり、将来海外で仕事をしたい」くらいの感覚でした。
―10歳の少年にとって、かなり衝撃的な体験だったと思います。そこから実際に留学を希望されるまではどのような心境の変化があったのでしょうか
刺激的だったラスベガス旅行を終えて地元に戻ってくると、遊びの種類も、行動範囲も少し閉鎖的に感じるようになっていました。親にねだって英会話教室に通わせてもらっても、勉強は苦手だったので長く続かなかったりして、結局は野球部に打ち込む普通の日々を過ごしていました。
中学2年生になって初めて進路を考えたときに、部活の先輩達がみんな同じような高校に進学し、自動車や刃物関連の会社に(鈴木さんの出身である岐阜県関市は「日本3大刃物の街」)就職するといった「決まりきったルート」しかないことに気がついて、だったらもっと違う世界を見てみたいと思い、「海外留学がしたい」と親に相談したんです。
―ご両親の反応はどのようなものだったのでしょうか
私が海外に興味関心を持っていたのは両親も知っていたので、海外からのホームステイの受け入れなどをしてくれていました。ただ、まさか留学したいと言うとは思っていなかったようです。
しかし、中学校の先生から反対されても「本人の人生だから、本人の意志を尊重します」と逆に説得してくれていたようで、前向きに応援してくれました。とは言え3姉弟の真ん中で、金銭的にすごく余裕があるわけではなかったので、誰かに支援していただこうと考えました。
当時は会社や病院のHPに個人の連絡先などが書いてあった時代だったので、ひたすら弁護士や医者の連絡先を探してはメールを送り続けること約半年、最終的には東京にいる医者の方に支援いただけることになりました。両親とその方からの資金援助が実現し、留学への道が開けました。
―半年間も知らない方にメールを送り続けるのは凄い行動力ですよね。その情熱はどこから湧いてきたのでしょうか
両親から、応援してくれる気持ちと同様に、どこまでの情熱があるのかも見られていたように感じていて、結果はどうであれ根気強くやり切らなくてはという気持ちがありました。中学3年の2月には一人で自分より大きい荷物を持って飛行機を乗り継ぎ、オーストラリアに渡りましたので、やる気はかなりのものだったと思います。
オーストラリアの高校は年度始まりが翌年の1月だったので、それまでは受験勉強に専念していました。海外に住めば英語がすぐ話せるようになるわけではないですし、日本にいた時も英会話教室を途中でやめてしまったくらいですから、語学勉強には苦戦しましたね。
そんな時に助けとなったのが「オーストラリアフットボール」と言うマイナー競技です。ホームスティ先の一つ年上のお兄さんが、野球などスポーツが好きだった私を誘い出してくれたのがきっかけで、初めての海外生活に少しずつ馴染めるようになりました。コミュニティでの友達が増え、日常的な会話からスピーキングを上達させることができたのが大きな学びとなり、そのおかげで無事オーストラリアの高校に合格することができました。
そこからイギリス・香港・北京へと歩みを進める
―英語が話せるようになったのも、誰かが「きっかけ」を与えてくれたのが大きかったということですね。しかし、高校はイギリスのオックスフォードとお伺いしていますそうなんです。実は、翌年1月の高校入学を控えた12月、支援いただいている篤志家の方から「せっかく留学するなら、国際バカロレア資格に興味はないか」とご提案をいただきました。
国際的に認められている大学入学資格の1つで、非常に興味を持ったのですが、来月から入学する学校も決まっていますし、なにより今からオーストラリアのバカロレア教育を受けることが出来る学校は受験がもう終わっています。篤志家の方に「興味はありますが、…」と返事をしたのですが、返ってきたのは「北半球の入学は9月だから間に合うよ!」という、思ってもみなかったお返事でした。そこから、3月にはイギリスへ渡り、6月に受験をして、9月からバカロレア教育を受けることのできるオックスフォードの学校へ入学することになったんです。
―怒涛の留学生活ですね。バカロレア教育は鈴木さんのその後の進路にどのような影響があったのでしょうか
バカロレア教育は「これまでの学習と社会のつながりを学ばせるプログラム」ということになっていて、一般的に高校で学ぶ基礎教養の授業と、それと同じくらい学生同士で議論をする授業があるのが特徴です。「第二次世界大戦はどのようにすれば防げたのか?」「これからの社会が良くなっていくためにはどのようなリーダーが必要か?」といった、答えの無いものに対して議論を行い「考える力」を身につけるといった内容の授業でした。
議論で私に求められる意見の多くは「アジア人として陽平はどう思う?」など、「アジア人としてのアイデンティティ」を考えさせられるものでした。唯一の日本人だった私の意見は、尋ねられることも尊重して貰えることも多くて、「アジア人」として物事を考えるうちに、アジアの大学でより考えを深めたいと考えるようになりました。結果として香港の大学に入学し、交換留学で北京の大学にも通う大学生活を送ることになりました。
―オーストラリア、イギリス、香港、北京と、長い海外留学生活をされた後、なぜ日本での就職を選択されたのでしょうか。
当時はリーマンショックがあって、日本では多くの自動車産業が落ち込み、地元で就職した友達が職を失う時代でした。そのため、「日本の会社の競争力を上げたい」というのが就職活動の軸でした。
その中でも外資系のコンサルティング会社を選んだのは、日本の年功序列な考え方が薄く、一年目から多くの打席に立ち、社会に影響を与えるような仕事が出来ると思ったからです。そのような意志を面接でも伝えていたので、実際に自動車関係の仕事を半分くらい任せていただけましたし、3ヵ月ごとにあらゆる国へ海外出張を繰り返すなど、勤めていた約3年間で非常に多くの経験をさせていただきました。
思い切って起業を決断した「ワクワクと不安の比率」
―その後、鈴木さんが25歳の時に現在の「株式会社Doorkel」を起業されることになりますが、なにか強い想いがあったのでしょうかたまに地元の友達に久しぶりに会ったり、オンラインで話したりすると、近況の話になると思うのですが、自分の海外を飛び回ったり、大きな裁量を任せて貰える仕事・環境に対して「自分も留学という選択肢を知っていれば」とか「そんな仕事をしてみたかった」みたいに言われることが多くなりました。
そこで改めて自分の人生を振り返ってみると、今こういった仕事をできているのは、ラスベガスの家族旅行や、支援をしてくれた篤志家のアドバイス、アイデンティティに気づかせてくれたバカロレア教育など、多くの「きっかけ」があったからだということに気がついたんです。そのようなことを考えるうちに、これまで自分がしてもらったように「誰かのきっかけを作り出すインフラ」を創りたいと思うようになりました。
それと同時に、25歳になって、あと40年働くなら1日でも早く面白いと思ったことに時間を使いたいと考えたのも理由の一つです。ざっくり年間250日くらいを、残り65歳まで40年働くと考えると、「残り約10,000日しか働けない」と思って、何の事業計画も無いまま会社を辞める決断をしました。
―順調な社会人生活から、かなり思い切った決断だと思うのですが、不安は無かったのでしょうか
不安が無かったわけではありません。ただ、これまでの経験から「ワクワクと不安の比率が7:3だったら行動する」という自分の中の指標があったので、思い切って決断をしました。それはこれまでの「留学したい!」と思った時と同じで、不安は絶対に0にはならず、付きまとってくるものだと経験から理解していたからだと思います。
年間2,000万円の赤字から、3ヵ月で1億円を売り上げるサービスを見つけるまで
―とはいえ、起業をすることはもちろん、事業を軌道に乗せるまで、大変な道のりだったのではないかと思いますそうですね、まずは「きっかけをつくる」を大きなミッションとして、「自分の価値や可能性を知ってもらう」というビジネスモデルからスタートしましたが、現在メインのプロダクトとなっている「SchooLynk Contact」にたどり着くまでは紆余曲折ありました。
最初にターゲットとしたのは、親や家庭環境に大きく左右されず、ある程度自分で意思決定が出来るような「高校生~若手社会人」です。おのずと進学やキャリアの話になったので、私の留学での原体験ともリンクさせ、留学を受け入れたい学校と実際に留学している人、そして留学支援している団体を繋げる「SchooLynk SNS」を最初のプロダクトとして2018年にリリースさせました。
サービスリリースからすぐに会員は20,000名を超え、順調にいくと思いきや、ユーザーは留学に関する情報を得たらすぐに離脱してしまい、なかなか定着してくれず…。2019年には留学に関する情報提供ツールに方向転換を行いましたが、結果はあまり変わりませんでした。
その同時期である2019年の年末に、中国の学生時代の友人から新型コロナウイルス県連の情報と共に「留学を扱うビジネスをしているのであれば、早いタイミングで事業転換した方がいい」とアドバイスをいただいたこともあり、新しいプロダクトを何個も作ることにしました。次々と考えたアイデアを事業者様やユーザー様にお話させていただいているうちに、新型コロナウイルスはあっという間に流行し、逆に大学・専門学校様から「このままではオープンキャンパスなどの広報活動が難しくなる」というご相談を受けるようになりました。
その声を受けて、3ヵ月という急ピッチで制作しリリースしたのが、学生募集に特化した教育機関向けのマーケティングシステム「SchooLynk Contact」です。ありがたいことにリリースから3ヵ月で200以上の大学・専門学校に導入をいただくプロダクトに成長をしており、それまで年間2,000万円くらいの赤字続きの経営でしたが、あっという間に1億円を売り上げることに成功し、黒字転換のきっかけにすることができました。
2021年には学生数の多い有名大学様などにも導入いただき、実績を多く積ませていただいたため、2022年からは学生募集にお困りの学校様に対して、更に広く知っていただけるような活動をしていく予定です。 株式会社Doorkel
2017年8月設立。留学における情報提供サービス「SchooLynk SNS」を2018年にリリース後、様々なプロダクトへのピボットを経て、新型コロナウイルスの流行による顧客(大学・専門学校)のニーズにいち早く対応した学生募集支援サービス「SchooLynk Contact」を2020年にリリース。リリース後わずか3ヵ月で200校以上もの教育機関に導入され、以降も拡大を続けている。